昭和51年06月10日 朝の御理解
御理解 第57節
「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」
信心は神をいよいよ杖につかせて頂けれるところまで信心を進めていく事です。一切が神様のおかげと分かり、一切を神様にお任せして、自分の生き方の全てが御神意にもとずいた、いうなら教えにもとずいた生き方が出来る、と言う事が神を杖についた時です。いかに私が金光様の信心を何十年しとりますと言うても、それは神を杖についたと言う事にはならない。本当の事もっと言うたら、いうなら神を杖につくと言う事は、もう大安心のおかげを受けると言う事です。神を杖につけば楽じゃと仰る。
そこにはもう不平も不足も勿論ありませんが、もう焦燥もなからなければ、いわゆる安心があるのみと言う事です。信心の喜びがあるのみという、神を杖につけばそんなに素晴らしい事なんです。金光様とお縋りしとりますと言うても、まだ金を杖についたり木や竹を杖について、そして金光様というておるのです。だからここんところを目指していくと言う事が、金光教の信心のまぁ全てと言うてもよいです。
今日は実は私は、この五十七節はあのいうならサブタイトルであって、本当はここんところを頂いた。『御理解というところのね、白紙のところ。御理解のこの御の字をね、御の字をあのう左からこう頂いたんです。御の字をね、右からじゃなく左から頂いた。』すと卸すという字から行ということになりますね。行人偏の行。卸しだから私はすぐ卸し小売りと言う事を思うた。信心も小売の間はね、そうたいして改まらなくたって、いうなら木や竹を杖についておっても、まぁ神様から加勢してもらう程度の生き方です。
けれどもこの卸しの行と言う事になったら、今日皆さんに聞いて頂いておるところが芯にならなければいかんと思うです。まぁ小売と言やあね、小規模であり卸しと言やあ大規模になってくる訳です。そのいうなら小売の行というならばです、まぁいわゆる金の杖をついてもよか、木や竹をついてもよか、人にすがり頼るでもいいですけれども、卸しの行と言う事になるとそう言う訳にはいきません。神を杖につけば楽じゃという、本当に神様を杖につくというか、言うならば教えそのものが私の生き方の全て。
言うならば金光大神の教えにもとずく、一つの行者であって始めて御という字を、左から読むと言う事になるのじゃないでしょうか。これは例えば私過去の何十年間の信心は、言うならば小売的な信心であった。神様にお願いをすりゃ、まぁ本当にいよいよの時にはおかげ頂いた。そして神様は本当に有り難い有り難いと言うてきた。自分の心はどうかと言うと、我情我欲で一杯であったり、金を杖についておるのであり、木や竹を杖についておる。金を頼りにしておる。
自分の自分が出来る木や竹、あのう木は自分の心、自分はやれる、自分は自分の腕を信じておる。そして神様はいうならば小遣い程度にしか使ってない。神様を後押し程度に、自分が引っ張って行って、神様から後押ししてもらうと言った様なおかげの、これは何十年間であった。終戦と同時に引き揚げと言う事になって始めて気が付いた。今までの信心がいかに目が粗いというか、言うならば木や竹を金を杖についた信心だったかということが、いわば言葉でいうならそういうふうに気が付いた。
実際を見ると分からなかったけれども、とにかく今までの信心が間違っておったと言う事だけは気が付いた。そこでどこにその間違いがあったかというところから、まぁ様々な修行もしてみた。これは私の過去を知っておられる方が見て聞いておられる通りであります。そこでいよいよ自分の無力さと言う事を実感すると同時にです。いよいよ無力無能の自分であると言う事が分かれば分かるほど、いうなら食べる資格もなからなければ着る資格もないというところに立脚した訳です。
というて食べん訳にはいけんから、まぁとにかく頂かせてもらう、お粥食一椀ということに一日に。着る物も夏服一着を、もう常時夏服一着で過ごす。だんだん着ておる洋服がこの袖のところが破れてまいりますと、家内がこう中へ折り曲げ折り曲げして、ちっとこう肩裄が短くなるくらいになっておりました。もう靴はぼろぼろでもう口開くようになったから、以来は拾い集めた下駄を履くように致しました。買う事はしませんでした。もうそれこそ下駄は石炭箱に二杯位拾らってあった下駄が集まっておりました。
ここで片一方、こっちでもう不思議に下駄が落ちてるんですよ。私があの長浜町から荒戸の福岡の教会にお参りする、その道すがらに朝拾うんです。そしてあれとこれとこう、子供たちもそうしてみんな拾うてきてきた、豊美なんかまだ小学校の一年生に行く時に、家内がつくった練り緒、練り緒の下駄に少し格好は違うけれどもと言う様な、片々の下駄をはいてまいりました。傘がなかったら雨が降る日には、もう本当に学校に行かれんという時代がございました。
そこからです、なら今までの信心の間違いはどこにあったか、本当な事が分かりたいというのが、まあ私のまぁその時分の信心、いうならば金も頼りにならん、物も頼りにならん、自分自身の腕すらも、あてにならない事が分かったからです。そして今日のご理解を頂いてみて、ははぁあぁいう修行が卸し売りの行だなと思うんです。自分の無力、自分の無能さ加減、といったものがギリギリ分かった時点からです、信心が卸し売りの行になって来た訳です。
ただお参りをする、病気を直してもらわんならん、商売が繁盛致しますように、今日は集金に行きますからどうのああのと、まぁいちいちお取り次ぎを頂いて致しとりますと、言うとりますけれども、それはどこまでも、なら神様をこ使いに使ってるようなまぁもんです。いわゆる金や竹を杖につきながら、神様をまだ杖につきえていない時です。そこから不思議とです、なら神様を信じる力というものは、もうそれこそモリモリと生まれてまいりました。
皆さんですからね、元をとって道を開く者はあられぬ行をするけれどもと、後々の者はみやすうおかげが受けられると仰るのは、いうならこの合楽教会がいうならば、まぁ元を取らせて頂いたのはいわば私です。ですからなら私のようなねお粥食一食で、夏も冬も夏服一着で過ごしなさいということじゃ決してないのです。そこはもう私がたどってそこんところで得たものを、皆さんが頂いて下さればいいのです。
だからどう言う事かと言うと、徹底して全ての事に御の字をつけていくとか、もういよいよ成り行きを尊ぶ、大切にさせて頂くとかという、いうならば信心にいうならば垢抜けしてをして来た訳です。もちろん断食をしてはならない、水行もいけないいうならば表行の様な事はしてはいけん。下駄を拾うて歩きなさいなんて言うたって、まぁ聞く人もありますまいけれどもね、そういうことは必要じゃなくなった。いや必要じゃそういうことはしてはならないというのが、今の合楽のいき方です。
今日私ある事をお願いさせて貰いよったら、『68.000円と頂いた数字で。』書いて御覧なさい、数字で68.000円。68.000と言う事になるでしょう。6という事はお徳ということですよね。皆さんがいつも聞いておられる、禄食む言うでしょう。千石よりか一万石といったほうが、やはりね 禄ということは徳ということ。八というのは無限大ということですね、こう広がりに広がって行くということです。数字で書いてもやはりそうですね。
漢字で書いても末広がり 八の字は。68.000円。68.000円から行けということです。先ず徳を受けて徳の基礎を作って、そしてこう八の字に広がっていくおかげを頂かにゃいけん。そして今日みなさんに言うところの、事ある度に自分というものがむなしゅうなっていく。いうなら00がついていく。68.000円にもう一つ0を加えると68.0000ということになるでしょう。その時点時点で小数点が一つずつ下へさがっていくわけである。6、800、000と言うたらまた0が増えて行く。
また小数点が一つ下がっていく、その時点から。こういう限りない私はおかげを受けられるのが卸し売りの行だと思うです。私は皆さんにどうでもひとつ卸し売り、小売りよりも卸売というおかげを頂いてもらいたい。今日私は一番初めに頂く、御の字を左から読めば卸しと書いて行と書いてある。ところがなかなか理屈では分かっておっても、自分をむなしゅうすると言う様な事は、出来るようであって出来ない。大体一番楽なんですね、自分というものを空しゅうしてしまうと。まかせきるというのですから。
今日は私はあのう誰が歌うたかな、「サヨナラサヨナラ」という歌があるでしょうが。けっきょく過去の一切をサヨナラしなければいけんのです。自分が出たらいかんです。過去の一切が現在今日の難儀になってるのですから。苦しくなってもうにっちもさっちもいかんという時には、自分で自分の首をしめるようなことを、過去においてしてきておるからです。そこで自分のする事思うておる事を、もうこんなにつまらない、自分はたいてい知恵があると思いよったけれども、本当にかえってその知恵が邪魔をした。
自分には腕があると思いよったけれども、その自分の腕がいうならば、あてにならんことが初めて分かった。もう首をくくるより仕方がない。私がなら終戦引き揚げ、初めて自分で自分の首をくくるような、過去のあった事に対して、いわゆる過去の一切とさよならをした。そこに大坪総一郎があらたに生まれ変わったと言う事になるのです。自分で自分の首をくくると言う事は、まぁ自業自得と普通では申しますけれども、お道の信心ではそこにいたった時が、いよいよ小売業から卸業へ移って行けるチャンスです。
ひとつ皆さん、68、000円からやっていかなきゃいけませんよ。そして一つずつこのゼロを増やして行く楽しい事です。それをならどう言う事かというと、金も捨てた物も捨てた、木や竹はもちろん捨てた。そして神の杖一本に貫いて行くと言う事なんです。過去の一切とさようならをして、新たな生き方が生まれて来る訳です。だからまだ自分でやれるとか、まだ自信があるとかという人は、いっちょその自信のほどを、一つ本気で自信たっぷりでやってみるがいいです。
そしてなら自信というものに、いうならばもし自信を失ったところからです、生まれてくる信心です。自信だはなくて信心です。信ずる心です。それは神様を信ずる心です。そこから初めて神の杖をつく事が出来るのです。神を杖についているようであって、まだ木や竹をついておる自分、いうならば本当にこの一生懸命と言う事は、命をかけると言う事ですけれども、死んだ気でと言う事にもなりましょうね。そこから生かされおる自分が分からせて頂く。
今日は小売業から、卸業的なおかげを頂く事のための信心を聞いて頂いた。皆さん折角いうならば、ここでもとをとって道を開く者はあられぬ行をするとこう、そのあられぬ行をする。後々の者はみやすうおかげが受けられるとおおせられるのですから、私のしたいわばあられぬ行を皆さんに求める事ではないのです。私がそういういうならばあられぬ行をさせてもろうて分かり得たもの、それを改めて分かって頂きたいと思うのです。信心がいうならいうなら一般に言われます。
我を取ると言う事を言われますが、我をとると言う事は、自分をむなしゅうすると言う事です。我があるからイライラがあったり、腹立ちがあったり、いわば心配があったりするのです。我をとって教えに真剣に取り組ませて頂く時です、私が年々歳々おかげを頂いてまいっとります、やはりその時点時点でです、何かがあるたんびにです、私というものがむなしゅうなっていく。ゼロという0がふえていく時に68000円から、小数点を一つ下にさげていく。
そこから680、000と言う事になれば6、800、000と言う事にもなれば、68、000、000、680、000、000と言う様な事にもなっていくのです。信心はこんなに楽しい事はないです。こんなに有り難い事はないですと言えるのはです、小売の間は、ただおかげだけが有り難いと言う事であって、全て有り難いと言う事が分からない時代です。いよいよ小売業からひとつ卸業にならせて頂く、それもいうならば、あられぬ行をすると言う事ではない。
本気で私が言うておる事を、皆さんが聞いて下さると言う事だけに焦点をおかれたら、同じおかげが受けられると言う事を、今日は聞いて頂きました。同時にです、なら今日私が神様から頂いた68000円と言う事、それから過去の自分にさようならをすると言う事。そう言う所にならまぁいとも簡単に申しましたけれども、まぁ難しさがあるというなら難しいでしょうけれども、本当に神を杖につけば楽じゃという、その楽なおかげ頂くための、これはどうでもたどらなければならない、どうでもこの山だけは越えなければならないところなのですから、そこを越え抜かせて頂く修行が大事ですよね。
どうぞ。